http://kashima.kurofuku.com/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%A5%B3%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%8F%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86『女らしく生きましょう』
エドグレ。
黒鉄のネタバレ注意。
「あ、リップの色変えた?」
キーボードを打つ指が止まる。声の方向に目を向けると、コーヒーをすするエドが数歩離れたところで俺の顔を見下ろしていた。今朝下ろしたばかりのコスメに気づいてもらえて満足する。先日本土に渡ったときに買ったオレンジ系のルージュは、今までのチェリーピンク系とはまた違った心にしてくれてわくわくしていたし、何より同僚に気づいてもらえたということは女らしく生きている証になる。気分よく笑って答える。
「ええそうよ。似合う?」
「うん多分」
そこは多分つけなくていいだろうがよ。ジト目をすればエドは「あー」と軽く目を泳がせてから悪びれなく「ごめーん」と笑った。
「俺そういうの詳しくないんだわ」
「別にブランドを当てろとか言ってないけど?」
「だって女って全身のコーデ? とか考えて化粧するんだろ? 今日はピンクを基調とした柔らかめな印象とか、ブルー系で揃えてクール系で臨むとか」
「詳しいじゃないの。でもだからといって全体バランスを見て似合うか似合わないか、いちいち評価求めてないわよ。似合うよーと言えばいいの」
「そっか、そういうもんか」
そういうものよ、と背もたれに体重を載せると、エドは自分の机に向かいながら「じゃあ似合ってるよ」と手を振った。ふうと肩を竦めながら「一言余計」と返して、コーヒーでも飲もうと俺も立ち上がる。ギッと椅子に体重をかけてエドがまだ会話を続ける。
「前の彼女がさぁ、『ちょっとの変化も気づけないとかサイテー』ってよく言ってたんだよね。だからここでは気にするようにしようと気ィ使ってたんだけど、難しいなあ」
「別に私あなたの彼女でも何でもないわよ」
「ローマは一日にしてならずって言うだろ? 普段から鍛えておかないと」
「知らなぁい」
んー、と伸びをする。諺は知っているが、エドの言い分には大分興味がなかった。
「女子ってさぁ偉いよ。毎朝メイクして着る服決めて、夜化粧落としてスキンケアして、数日おきにネイルもするじゃん? 偉すぎ」
「それは……」
確かにその点は共感できてしまったためうっかり頷きそうになった。自分を着飾ることに疎ましさを覚えることはなかったが、変装するたびに女になりきる条件の多さに窮屈さは覚える。自分でやりたい髪型のために時間をかけるのはやはりモチベーションのベクトルが違った。
しかしここで「わかる」と言っていいものか。果たして女は「女って大変よ」と言うものなのか。じっと自分の爪を見て、マニキュアを施していないことに気づく。しまった、これは女失格だったか。最近マジで忙しくてネイルなんて触ってなかった。
数秒女らしさの定義に悩んでしまったら、何を勘違いしたのかエドは若干慌てて機嫌をとるように高めの声で「グレース?」と声をかけてくる。大丈夫、エドはただの雑談をしているだけだ。俺はテキトーに拗ねたふりをすればいい。
「悪かったわね、ネイルもしてなくて。でもね、フランスの女は素を大事にするの」
フンと鼻を鳴らしてみせれば、「わかったわかった」とエドが肩の位置でホールドアップした。
「グレースの今日のリップめちゃくちゃ似合ってるし、ネイルしてようがしてまいが爪も綺麗」
「わかればよろしい」
「お詫びに今度マニキュア買ってくるよ、な?」
ぱちくり瞬きをしてしまった。今のは物品が飛び交う程の諍いだっただろうか。しかしコスメがタダで手に入るならそれはそれでありか。
「ネイルしてない女は女らしくないってまだ言いたいの?」
「そうじゃなくて。変に弱みを握られるより適当に解消しちゃったほうが俺は楽だからね。それに日本のコンビニって、スイーツと似た値段でマニキュア売ってんだぜ。女に甘い物はダイエット中だと地雷だから気をつけろって言われてるしな」
「それも前の彼女?」
「いやこれはねーちゃん」
「なるほど」
男とのこういうやりとりも貴重だ。女らしく生きるためのヒントが転がっていたりする。へー、コンビニでマニキュア買えるんだ。今度渡ったらチェックしとくか。あと直美への差し入れに甘い物を選ぶのも気をつけよう。しょっぱいもののほうがいいだろうか、でもアメリカ育ちだし半分日本人でも煎餅は食べなれていないかもしれない。
「期待してるわね」
エドに手を振り、コーヒーを淹れに歩き出す。「あのさー」と背中に声がかかる。
「怒られるかもしれないけど、俺はピンクのほうが好きだなー」
一瞬何の話かわからなかったが、ルージュの話か。間延びしているが正直な言葉に俺は合点がいく。要はエドの中のグレース像に、今日のルージュはそぐわなかった、だからちょっとの変化に気づいた。ただ、恋人ではないにしろ同僚への目線としては特別感が付与されていると読めた。どうでもいい同僚の外見など意識にも止めないだろう。エドの中でグレースはきちんと仲間として認知されているようだ。
「はーい、ありがとねー」
しかしこの心の乱れの正体はなんだ。金だって無限ではなく、海の中では調達も難しく、限られた予算の中で選んだルージュが下位となったことに、思いのほかショックを受けてしまった。似合ってるって言ったくせに。ざわざわするが、今はグレースだ、何か蹴って八つ当たりもできない。せめてもの腹いせに、コーヒーのボタンを強く押した。淹れたばかりのコーヒーを飲み、カップの縁についたオレンジ色を指で拭い、やっぱり明日からチェリーピンクに戻そうかとぐるぐる考える。好きといってもらえた色を纏ったほうが気分もいいだろう。
よし、と顔を上げると、「あ、グレース!」、今日初めて会う直美がニコニコ手を振って近づいてきた。
「わ、グレース、リップ変えた? 新色のアプリコットティー買ってたのね? 可愛い、似合ってる!」
「……ホント? ありがと」
クソ、女らしさの明日はどっちだ!
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